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足助病院コラム

Asuke Hospital column

2024/06/18 

Vol.300 「災害と向き合う その2」

執筆 足助病院職員

企画室長兼事務管理室長 日比敦郎

【その1はこちら

阪神淡路大震災から15年以上が経ち、その間私は高校で野球しかやらず、大学ではロクに勉強もせずバンド活動と麻雀とアルバイトに明け暮れて過ごしました。
それこそ阪神淡路大震災が発生したころは、医師を目指していたのですがいつのまにか挫折し、大学の先輩方を追うようにJA愛知厚生連に就職しました。
災害と向き合うどころか、「自分さえよければいい」を地で行く生き方をしてきました。
そんな自分勝手な私でも人生の伴侶を得て、その新婚旅行から帰ってきたときに東日本大震災が発生しました。
時差ボケから完全に回復していなかった当時、自動販売機で紙コップのコーヒーを買った直後でした。当時は本部で勤務していました。
突然の眩暈のような感覚に襲われて、思わず座り込んでしまった記憶があります。
「あぁ~まだ時差ボケだな~」などと呑気なことを考えていましたが、とんでもない話でした。
実際、当時の本部会館は耐震補強前で揺れ方としては、直下型とは違い「ゆ~らゆら」という揺れだったのです。
「地震だ~!」などという騒ぎにはならず、「今の何?」みたいな感じで職員同士が顔を合わせる、というような状況でした。
その後の状況は周知の通りです。本会としてもDMAT隊を始めとした多くの支援チームが東北へ駆けつけました。
本部職員としては、医療支援というよりはJAグループを通じて農家の方や被災したJA支店の後片付けに関するボランティア募集がありました。
思い切って応募したのですが、自分が選ばれることはありませんでした。

震災から2年が経過したころ、妻と二人で東北の地を訪れました。
仙台に従兄弟が住んでいたので、尋ねがてらとなりました。
走行はできたものの、道中の東北道がかなり波打っていました。
元々観光目的の旅行ですので、震災の爪痕を視察などという旅程はなく、当時の状況を表すものと言えばこの東北道と松島のお寿司屋さんの建物にくっきりと残る津波到達ラインぐらいでした。
お寿司屋さんの大将から津波のお話を伺い、従兄弟からも地震当時の状況を聴いてもなお、当時の私にとってはまだ「他人事」だったのだと思います。

続く
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