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足助病院コラム

Asuke Hospital column

2024/07/16 

Vol.304 「災害と向き合う その6」

執筆 足助病院職員

企画室長兼事務管理室長 日比敦郎

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被災地支援の対象が「カネ」「モノ」「ヒト」ではなく、「人」こそ最重要とようやく気付いた私は、南海トラフ発生に対して何ができるのか、再度悩む日々が続いていました。
その中で、またしても震災が起こりました。

令和6年元日、能登半島地震発生。

帰省していた私は実家で両親、兄家族・姉家族と食事をしていました。
16時10分、緊急地震速報が流れます。
大きな寿司桶を持っていた母に「地震が来るから寿司を置いて座って」
居間でTVを見ていた父と長女に「頭を隠しておこう」
※長女は既にテーブル下に潜っていました。
庭で遊んでいる二女や甥っ子姪っ子たちに「地震が来るよ~みんなおじさんのところに集まれ~!」と叫び、庭の灯篭から遠い場所に集めました。
数秒後、揺れが来ました。いやもう来ていたのかもしれません。
私の後を追って出てきた妻と共に、子供5人を飛来物から守りながら耐えます。
すぐに長周期地震と分かる揺れでした。東日本大震災の時に本部で感じた揺れと同じでした。
実家に被害がないことを確認して病院に連絡しようとすると逆に日直者から電話がかかってきました。
病院も被害がないことを確認して次の対処を考えていました。
後々に妻から聞いた話ですが、家族が全員驚いていたそうです。
速報が鳴り、ものの数秒で靴を履いて外の子供たちを迎えに行った私と妻に対して「さすが病院職員だね」と。

そうか、慣れてない人たちは自分の身を守るので精一杯なんだよな、庭の灯篭が危ないというのも反射的には気が付かないよな・・と感じました。
ここで防災士の資格が活きたのです。結果として灯篭は倒れませんでしたが、瞬時の判断ができたことは良かったです。
資格取得の勉強をさせていただいたすべての皆様に感謝した瞬間でした。

その後、本会も含め全国から多くの支援チームが能登半島に駆けつけました。
能登半島はその立地条件から公助が入りにくい地域です。災害急性期の支援チームであるDMATが発災後数カ月経っても現地で活動する状況が続きました。
当院の出番は来るのだろうか、院内で備品を揃えながら被災地の情報収集をする日々でした。

続く
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