MENU
green

足助病院コラム

Asuke Hospital column

2024/08/20 

Vol.309 「災害と向き合う その11」

執筆 足助病院職員

企画室長兼事務管理室長 日比敦郎

【その1はこちら
【その2はこちら
【その3はこちら
【その4はこちら
【その5はこちら
【その6はこちら
【その7はこちら
【その8はこちら
【その9はこちら
【その10はこちら

輪島市内に入って24時間以上が経過していました。
金沢市内からは陸路、のと里山街道を通り、途中の崩落した道もなんとか徐行ですり抜けてきました。
途中の土砂崩れ箇所は大小合わせて無数に存在し、家屋はほぼすべてと言っていいほど倒壊していました。まれに残っている家屋は全て新しく建てられたと思われる住宅でした。
鉄筋コンクリート造の建物ですら倒壊しており、もはや崩れているのが当たり前の状況でした。
そんな中、輪島朝市に向かうこととなり、大変申し訳ないのですが、正直なところ見慣れた光景だろうと私は思っていました。

・・・愚かで安易な考えでした。

朝市には何も残っていませんでした。歴史の教科書などで見た「空襲後の街の様子」と同じ光景が目の前に広がっていました。
この光景をどのように捉え、この場にいない人たちに何を伝えればよいのか、全くわからなかった私はとにかく歩いて、感じて、撮影することしかできませんでした。
私は被災する前の輪島朝市を知りません。
それが良かったのか悪かったのかも分かりません。
この地であらゆるものを失った方々にかける言葉はやはりありません。大川小学校の時と同じ思いでした。

この地は5/7に訪れました。
ふと見上げると、倒壊した家屋の向こうに鯉のぼりを見つけました。海からの潮風で元気に泳いでいました。どなたかが揚げられたのでしょう。
絶望の淵でかすかに見える希望の光のようで、灰色の光景で唯一彩りのあるオブジェクトでした。

この鯉のぼりが支援活動のハイライトのような気がしてなりません。
というのも私たちのチームが行った活動は決して大きくはなかったにしろ、それなりな貢献をしてきました。
そんな中でこの絶望と希望のコントラストが発信するメッセージはあまりに強烈で、単なるヘルプサインや叱咤激励ではないと思います。
ただ支援するだけでなく、何を感じ誰に伝えるのか、大変な課題をいただいたなと思っています。

そして・・
何年後かは分かりませんが、この地が女川町のように復興した際は、家族と共に訪れようと思います。
恐らく私自身が復興に尽力することはできないでしょう。私は私なりの方法でこの現状を伝承していきたいと思いました。

続く
コラム一覧へ戻る